ひよっこ散歩帖

やりたいことがないひよっこには少し息苦しいこの世の中をどう生きていくか、徹底的に考える(こともある)ブログ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』書評

先週書きかけた『僕が「女遊びしてこそ男は一人前だ」的な価値観が嫌いな理由』という論考ですが、なかなか書き進める時間が取れず、続きが書けていません...

ただこれは僕にとってかなり大事なテーマの一つなので、できれば今月中には続きを書きあげたいと思っています。(あくまでも希望的観測ですが...)

 

さてそんな宿題が溜まっている状況ではあるのですが、忘れないうちに今日読了した本の書評を。

最近影響力を高めつつある哲学者・國分功一郎先生の代表作、『暇と退屈の倫理学』です。

最新刊『中動態の世界』で話題沸騰な國分氏ですが、こちらもなかなか面白そうなので買って読んでみました。(『中動態の世界』はまだ読んでいません。近いうちに読みたいとは思っていますが。)

そしたら、かなーり面白い本でした。。。

 

 内容のざっくりとしたまとめ

この本は、「人間はいかに退屈と暇に向き合っていくべきか」について徹底的に考え抜かれた本です。

この問いについて、人類学・経済学・生物学・哲学など幅広い視点から考察がなされています。(もっとも國分氏は哲学者なので、哲学的視点のウエイトが重めではありますが。)

 

結論から言うと、國分氏は上記の問いについて以下2つの結論を出します。

 

まず一つは、贅沢=浪費をすること。

消費ではなく、浪費。

本来ないはずの欲望を恣意的に作り出され、観念を消費するがゆえに終わりがない消費をするのではなく、日常をお腹いっぱい浪費すること。

つまり、日常に潜むさまざまな事象を目いっぱい楽しむこと。

<人間であること>を目いっぱい楽しむこと。

 

そしてもう一つは、<動物になること>。

それは即ち、考えさせられる機会を積極的に求めていくこと。

考えさせられる機会を待ち構えること。

 

他にも、以下のような面白い論考が繰り広げられていた。

・「退屈」の起源は「定住革命」にある

・人間は動物に比べて比較的環世界移動能力が高い

ハイデガーを引き、「退屈」をざっくり三種類(実は二種類)に定義

 

等々。

 

雑なまとめですみません。笑

ちゃんと理解したい!って人は是非読んでみてください。

 

読んで考えたこと

 この本は上記の通り、要は、「普段の自分の生活に不満を持ってつまんないとか文句言うんじゃなくて、普段の生活を一つ一つ丁寧に楽しんで、かつ刺激=考えるきっかけへのアンテナを張り続ければ、けっこう楽しく生きられるんじゃないの?」っていうことを言っている本だと思われる。

 

これは最近読んだり触れたりしたものとかなり共通することを言っており、驚いた。というより、これだけ色んな人が同じことを言っているのだから、これが大きな物語のない現代を生き抜くための一つのアンサーへの入口なのかなとも思った。

 

例えば、日常を丁寧に楽しめという主張は、宇野常寛氏が『リトル・ピープルの時代』『母性のディストピア』で繰り返し主張している、「外部=ここではないどこかを求めるのではなく、内部=いま、ここに深く潜ってハッキング的に生きろ」というテーゼと同じことを言っている。

さらにはこれは、『ひよっこ』で岡田惠和が描いた、「やりたいことがなくても、擬似家族的共同体のもとで日常を丁寧に生きることで幸せになれる」という世界観とも全く同じである。

 

また、「日常を丁寧に楽しみつつもかつ刺激=考えるきっかけへのアンテナを張り続けろ」という主張は、千葉雅也氏が『勉強の哲学』で主張した、「一つのノリに入りつつも、他のノリを比較し続けろ」という主張と通底している。(最も、國分氏・千葉氏ともにドゥルーズからの影響を受けていることを考慮するとこれは当然かもしれないが)

 

これらの主張には概ね同意するが、二点問題点があると思う。

一つは、外部=ここではないどこか、大きな物語に従って生きることの快楽からいかにして逃れるか、という問題である。

本書で言われているハイデガーの退屈の第一形式は、盲目的かもしれないが間違いなく快楽が大きい。

その快楽が時に暴力性を孕むことを自覚しながらも、つい浸ってしまう。

これにどう抗っていくか、そこがもっと示されると面白い。

 

そしてもう一点は、「丁寧に日々の生活を楽しむ」ことを具体的にイメージすることの難しさである。

僕はこうした生き方の重要性・有用性を頭ではわかっていながら、身体感覚で具体的にイメージしきれず、苦しんでいる。

ただここに絞った論考は容易に陳腐な胡散臭い本になりそうだということもイメージできる。(「ていねいな暮らし」みたいな怪しい本になるだろう。)

陳腐にならずに、以下にここに具体的なイメージを与えるか。

この壁を越えた時、また違った世界が見えるのかなと思った。(そもそもこうした考え方自体が、外部依存的なのかもしれないが...)

 

今日のところはここで終わりにします。

非常に面白く、自分の考えも再整理された本でした。

『中動態の世界』も早く読んでみたいです。

僕が「女遊びしてこそ男は一人前だ」的な価値観が嫌いな理由〜その①:前提〜

こんばんは。ひよっこです。

今日は自分の中でもほとんど思考がまとまっていない事柄を、思考メモのような形で綴ります。

 

テーマはタイトルの通り、「女遊びしてこそ男は一人前だ」的な価値観をなぜ僕が好きになれないか、です。

どこにでもいますよね、こういう人。

「不倫は文化だ」とか言った某田純一がもてはやされることからもわかる通り、残念ながらある程度日本社会ではびこり続けている価値観です。

 

僕はこの価値観が直感的に凄く嫌いなのですが、嫌いな理由が自分の中でいまいち整理できていないため、一度文章にすることで思考をまとめてみたいと思います。

 

前提:女遊びが好きな人は別にいてもいい。例えそれが不倫であってもだ。

まず本題に入る前に、前提として、僕は別に女遊びという行為そのものを全否定しているわけではないということを言っておきます。

 

僕自身全く遊んでいる方ではないですが女の子は人並みに好きですし笑、女癖は悪いのにすごいいい奴みたいな人を何人も知っています。

 

スポーツが好きな人もいれば音楽が好きな人もいる。同じように女遊びが好きな人がいてもいいと思います。

 

例えそれが不倫であっても、その人が納得してやっているのであれば外からあれこれ口を出すようなことではないと思ってます。

もちろん不倫というのはほとんどのケースで他の家族を傷つける行為に他ならないので、その傷つけられた家族のケアは必要だと思いますが。

ただそれはあくまでも家族内の問題(たとえば、最近お父さんとお母さんが喧嘩してる、といったようなものと同質)なので、外部から手を加える必要があるほどの被害者が出ていない限りは当事者同士の問題だと思います。

 

(ちなみに僕個人の意見としては、不倫は絶対に許されるべき行為ではないと思っています

なぜなら個人的な感性として、傷つけられた家族のことを思うとやり切れないからです。

ただ、ゴルフ狂いの旦那に放ったらかしにされている家族については不倫ほどの激しい感情は抱かないので、あくまでもそれは個人の嗜好の問題なのだと思います。)

 

真面目なことを書いたら疲れました。笑

今日はこんなところにして、また明日以降本題について語っていこうと思います。

 

そんなわけで、一旦さよなら。おやすみなさい。

 

宇野常寛『母性のディストピア』書評

今日は書評です。

ここ1,2週間くらいちまちまと読んでいた宇野常寛著の『母性のディストピア』をようやく読了。

ざっくり言うと、戦後の日本社会を覆いつくす性質(「母性のディストピア」)について、サブカルチャー(とりわけ宮崎駿富野由悠季押井守という3人の監督を中心に)を分析しながら検討した本。

宇野にとっては、『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』に続く3つ目の本格評論だ。

6年ほど温めていたこともあり、本全体に宇野の熱を感じた。

 

ただ内容の方は、正直まだ消化しきれていないです。笑

自分がサブカルチャーに疎いため作品批評がやや腹落ちしきらないというのもあるが、作品全体を通した最も重要なコンセプトである「父」「母」が具体的にどういったものを指すのか、納得しきれなかった。

もちろん、本書では繰り返し「父」「母」についての説明はなされるのだが、宇野が具体的に何をイメージしつつ書いているのか、それがとらえきれなかった。

後半に、母=「半径10Km以内のことだけに執着して生きること」といった説明があったが、それを見てからはイメージが少し鮮明になった気はする。

 

「父」「母」の議論と並行して、虚構の時代=映像の世紀としての近代社会論も走っており、かなり重厚な一作となっている。

読んでいてひしひしと、「この本は理解しなきゃ駄目だ」というのも感じた。

特に私は宇野の社会観・評論にはかなり多くのところ共感しているので、そのすべてがつまっているといえる本書は、必ず再読し、血肉化しなければならない。

 

一旦たまっている他の本を消化して、年内には再読したいところ。

 

P.S.最近、「男は遊んでなんぼだ」「遊ぶべきだ」というイデオロギーについて考えている。そのうちこれについて記事を書きたい。

ライタープロフィール・ブログコンセプト紹介―「ひよっこ」の時代をどう生きていくか―

はじめまして、ひよっこと申します。

この記事では、

・このブログのライターである僕がどんな人間なのか

・僕がどんな思いでこのブログを書いているのか

について簡単にご紹介します。

「そんなの興味ねえよ!」という方が大半だとは思うのですが、こうしたイントロダクション的な記事を書いておかないとブログの根っこが不安定になってしまう気がするので、書きます。

また、こうした記事を残しておくことで、「あ~、ブログ書くのめんどくせぇ~」ってなった時に読み返してモチベーションを取り戻すこともできるかなと思うので。

さらに裏の裏の目的としては、このように僕という人間のサマリーを書くことで、自分がどんな人間なのか考えなおす契機にもなるのではないかと期待しています。

てなわけで、少々お付き合いいただけますと幸いです。

 

 

僕はどういう人間なのか

まずは自己紹介から。

僕は「ひよっこ」と言います。このニックネームに込めた思いについては後ほど詳しくご説明しますが、まぁお察しの通り2017年度前期に放映されたNHK連続テレビ小説『ひよっこ』から取っています。

いまについて

まずは僕が今何をしているのかと今までの経歴について、特定されない範囲で簡単にご紹介します。

 

現在、いわゆるITベンチャーマーケティング職に就いています。大学生の時から2年ほどアルバイトしていた会社にそのまま就職しました。

 

平成初期生まれで、現在20代前半から後半への架橋にいます。

 

東京都の23区内で一人暮らしをしていて、会社も別の区ですが23区内にあります。通勤時間はドアtoドアで30分ちょっと。

 

趣味はざっくり言うと音楽と読書。

音楽は演奏するのも聴くのも好きです。

中学から大学までバンドをやっていましたが、社会人になってからは演奏の方はさぼり気味。エレキギターメインで、たまーにアコギも弾きます。

好きな音楽は、わりと雑食ですがポップミュージックということになると思います。特に好きなアーティストは、小沢健二桑田佳祐。最近のバンドだとYogee New Wavesやnever young beachなどが好きです。シティポップと呼ばれるジャンルの音楽も好きです。コテコテですが山下達郎さんは特に好き。それから7,80年代のディスコミュージック(アース、スライ、ジャクソン5)、新しめのゴリゴリファンクミュージック(パパグロ、TOP、キャンダルなど)、コテコテハードロック(ZEPなど)、ロック黎明期の音楽(ビートルズなど)など洋楽も聴きます。etc...

ごちゃごちゃになってしまいましたが、基本ポップでグルービーでソウルフルな音楽であれば何でも好きです。

読書も雑食ですが、思想系が特に好きです。最近は宇野常寛さんの著作や出版物を好んで読んでいます。小説は太宰治や初期の村上春樹などははまっていた時期がありましたがそんなに読まないです。

あと音楽・読書以外にも、映画やTVドラマも好きです。両方日本のものを中心に観ます。

まぁこのへんの趣味のことについては各記事などを見て頂くのがいいかなと思っております。

 

これまでについて

続いていままでの経歴についてざっと書きます。

・神奈川県生まれ。大学まで実家暮らしだったが、就職のタイミングで家を出る。(とはいえいまでも1,2か月に1回は帰省している。)実家はいわゆる再開発されたベッドタウンに属するとおもう。

・小さいころはまったものは、昆虫採集・戦国時代・釣り・メガレンジャーなど。ふつうだ...

・公立小学校卒業後、いわゆる名門の中高一貫進学校に進学。中学時代はテニス、高校時代はバンドと学園祭に明け暮れるふつうの学生生活を送る。

・高校卒業後は一年の浪人生活を経て、いわゆるエリート大学と言われている大学に入学。大学時代はサークルでバンドを続ける傍ら、飲み会・バイト・読書に明け暮れる。ふつうだ。専攻は哲学・思想系。

 

まぁ自己紹介はこんなところでしょうか。ここはまた気が向いたときにでも書き足していこうと思います。

 

僕がなぜブログを書こうと思ったのか

続いて、このブログのコンセプトについてご紹介します。

このブログを書く目的、それは一言で言うと以下のようなものです。

やりたいことがないと生きづらいこの時代において、やりたいことが見つからない「ひよっこ」がどうすればしあわせに生きていけるのかを見つけて広めていくため

とはいえいきなりそんなこと言われても意味わからないと思うので、この目的について詳述します。

現代は=やりたいことがないと生きづらい時代

まず前提として、「やりたいことがないと生きづらいこの時代」という僕の認識についてご説明します。

 

現代は、「大きな物語が崩壊した時代だ」とよく言われます。

これについての解釈や議論はたくさんありますが、これを僕なりに現代日本に引きつけて考えると以下のようになります。

すなわち現代は、「(男性の場合は)良い大学を出て良い会社に入り、専業主婦の奥さんをもらって一つの会社で勤め上げ、郊外のベッドタウンに一軒家を立てるのが幸せ」といった全国共通の「やりたいこと」が機能しなくなり、自分で好きなことを極めて生きていける時代なのです。

 

上記のような全国共通の「やりたいこと」は、日本が戦後の焼け野原から高度経済成長を実現するために必要な共同幻想でした。

ただし、先進国の仲間入りをし、国としての成長も頭打ちとなった現代日本では、上記のような「やりたいこと」モデルが機能しなくなっています。

上記のような「やりたいこと」に縛られずに自由に生きられるクリアーな社会になっていると言えるでしょう。

それ自体は歓迎すべきことです。単一の価値観を押し付けることは、かつて全体主義時代の日本やドイツがそうだったように暴力性を孕んでいます。複数の価値観を認めるっことで、そうした暴力性を回避できます。

 

ただし、これには同時に問題もあります。

上記のような高度経済成長期型価値観で教育を受けてきた僕たちは、やりたいことを自分で見つける方法を知りません。もちろん中には自分でやりたいことを見つけてのびのびと生きていく人もいますが、残念ながら全員がそうではありません。僕もそんなやりいたいことが見つけられない人の一人です。

今の会社もなんとなく就職しただけで、人生のビジョンがあってそれの達成のために就職したというわけではないのです。周りにも同じような人がたくさんいます。いわゆるエリート大学を卒業しているにも関わらず、です。

 

じゃあ、どうやって生きればいいの?

では、そんなやりたいことがない僕たちは、どのように生きれば幸せになれるのでしょうか?

この答えが見つからず、毎日もがき苦しんでいます。

「なんか違う...」と感じながら日常を過ごしています。

この問いに少しでも答えられるようになるために、アウトプットの場としてブログをはじめることにしました。そして、あわよくば、僕と同じような問題で悩んでいる人々の助けになったり、アドバイスをもらえたりできたらうれしいです。

 

やりたいことを新たに見つけるのか、それともやりたいことなんてなくても幸せに生きるための方法を見つけるのか、どうなるのかは僕にもわかりません。

ただ、今日よりも明日、一年後に、この問いについて語る言葉を少しでも多く持てるようになれたらいいなと思っています。

 

ひよっこ」?

最後に、「ひよっこ」の由来についても書きます。

先ほどご紹介した「ひよっこ」ですが、実はこうした「やりたいことのない人がどう幸せになるか」について考えられたドラマでした。

 

「やりたいことのある人がどうやって夢を叶えていくか」にフォーカスした従来の朝ドラと比較すると、特にやりたいこともなくなんとなく東京で暮らすヒロイン・みね子がどうやって幸せになるか(正確には「お父さんを探す」という目的がありましたが、それすらも物語後半では無効化されます。)、「ひよっこ」がどうやって幸せになるかについて描かれたドラマだったのです。

 

このドラマは最終的には、赤坂の地縁共同体に基づいたいわば「擬似家族」(先述の宇野常寛氏もこの言葉をよく使われています)の獲得によって幸せになっていく様を描いていますが、正直その答えの出し方についてはいまいち微妙だと思わざるを得ません。地縁に基づく擬似家族の獲得は、現代日本においてはあまり現実的なものだとは思えないからです。

 

ただその答えはともかく、この「『ひよっこ』がいかに幸せになるか」という問題設定は非常にクリティカルかつ、僕にとって切実なものでした。

 

よって、「ひよっこ」では答え切れなかったこの問いについてもっと考えていきたい、考えて発信することで少しでも世の中を良くしたい、その一心でこのブログを書いていくことにしました。

ひよっこ」自体の作品分析なんかもそのうちやっていけたらいいなとは思っていますが、それがこのブログのメインにはなりません。

あくまでも、この「ひよっこ」の時代をどう生き抜くか、それについて考えていきたいと思っています。

 

とはいえ、ライトな話題についても書きます。笑

と、上記のようにこのブログの目的をご紹介しましたが、まぁ正直このテーマについては3割くらい書ければいいかなくらいの気持ちでいます。笑

「こんな本読んだよ~」とかそういった類のライトな記事もバンバン更新していく予定です。

ただ、そうしたライトな話題について一喜一憂することもまた「ひよっこ」の処世術として有効なもののひとつだと思うので、全く無駄にはならないかなと思っています。(実際朝ドラの「ひよっこ」では、日常を愛でることの素晴らしさのようなものが繰り返し説かれています。)

 

というわけで、この無謀な挑戦に1秒でもお付き合いいただければ嬉しいです!

 

それでは今日はこの辺で。

(この記事ですが、一旦ばーーーーっと駆け足で書いたので、定期的にアップデートしていこうかなと思っています!)