ひよっこ散歩帖

ライトな書評・映画評・ドラマ評から、日々の雑感、ちょっぴり腰を据えて考えたことまで。自分の文章で、誰かの世界の見え方をちょっとでも変えられたら幸せです。

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』書評

今日は先日毎日新聞か何かの賞を受賞したことで話題になったこの本。

気鋭の思想家・東浩紀の気合作である。

動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『弱いつながり』の三冊は読んだことがあったし、現代社会をどう生きるかという命題を考え実践している人としてはこの人はどうしても外せないだろうと思い読んだ。

 

内容のざっくりとしたまとめ

この本は、経済がグローバル化/政治がナショナリズム回帰している(「二層構造」の)現代において、観光客的に生きることの重要性を説いた本である。

観光客的に生きるとは、もちろん文字通り観光をしろと言っているわけではない。

東は、観光とは「郵便的マルチチュード」であると定義する。

マルチチュードとは、元々はマキャベリが使用した概念らしいのだが、ネグリ・ハートという2人の思想家が提示したことで注目を集めた概念である。

Wikipediaによると、「地球規模による民主主義を実現する可能性として、国境を越えるネットワーク上の権力」とあるが、要は、アラブの春のようなものをイメージするとわかりやすいと思う。

東はそのマルチチュードの問題点を指摘しつつも、そこに「誤配」という概念を付け加えることで観光客の哲学として再構成している。

 

ただ正直その「誤配」の部分についてはまだ理解が曖昧です。。。

要は偶然性のようなものだとは思うのだけど、ここは要再読ですね。

 

以上の観光客の哲学が本書の前半部分である。

後半では、それに関連してエッセイが4つほど載っているのだが、正直東の思い付きで書かれているような感じでいまいちだなと思った。(エッセイとしては面白いが、一冊の本にまとめるには雑過ぎる。)

ただその中でも、郵便的マルチチュードの連帯原理として「家族」の可能性を追求していたところなどは興味深かった。

 

読んで感じたこと

全体として、千葉雅也の『勉強の哲学』、國分功一朗の『暇と退屈の倫理学』と通底するところがあると感じた。

というのも、この「観光」において最も重要視されている「誤配性」というのが、千葉の言うところの「別のノリに出会う」こと、國分のいうところの「別の価値観をある程度追い求め続ける」ということと重なって読めたからだ。

まだ読んでいないが、國分の言う「中動態」も似たようなものなのではないかと推測される。

やはり、「ある程度の偶然性」というものが現代社会を生き抜くための一つのキーワードになっているのではないかと感じた。

 

また、「家族」に着目しているところも非常に興味深かった。

自分の個人的体験としても、「家族」というのは権力となる一方である種の思考停止的安心感(「母性のディストピア」?)をもたらしてくれるものだと痛感しているからだ。

そしてそれをポジティブに活かしていく可能性もあるのではないかとうっすら考えたりしていたので、この論考は非常に示唆的であった。

ちなみに宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』で「擬似家族形成」を一つの成熟の形として提示しているが、これはこの「家族」論と通底しているようにも真っ向から対立しているようにも見える。このあたりを検討してみても面白いのかなとは思った。