ひよっこ散歩帖

ライトな書評・映画評・ドラマ評から、ちょっぴり腰を据えて考えたことまで。自分の文章で、誰かの世界の見え方をちょっとでも変えられたら幸せです。

坂元裕二『カルテット』ドラマ評

今回はドラマ評をば。

ブログタイトルに『ひよっこ』が入ってるくらいなので、わりとテレビドラマを観るのとか、テレビドラマを見てあれこれ考えることが好きです。

なので、基本的に観たテレビドラマについてはメモ書きを残していこうかなと思います。

今日はその第一弾として、坂本裕二が脚本を担当し、今年序盤に一大ムーブメントとなった『カルテット』について書きます。

「今更カルテット?」と思われるかもしれませんが、実はリアルタイムでは見損ねてしまいまして、最近ようやく観る時間がとれたのでどうかご容赦ください。笑

 

なお、ネタバレとかは一切配慮せずに書くので、まだ観ていなくてこれから観ようと思っているという方は自己責任でお願いします。笑

このドラマの主題ではないかと思ったこと

このドラマは、端的に、「家族や仕事などといった昭和日本的依り代を失ってしまった大人たちが、擬似家族の形成を通じていかに生きていくか」ということを描いていたと思います。

 

別荘に集まる若者たちは、皆それぞれ出自や事情は異なりますが、共通して家族・仕事失っています。(例外的に、松田龍平演じる別府さんだけは演奏家の家族がいますが、家族に対して疎外感を抱いているのは明らかなので、「失っている」と言っても差し支えないでしょう。)

その「家族・仕事」というのは、高度成長期から続く昭和日本的生き方においては絶対的地位を獲得していたファクターでした。いわゆる戦後核家族や終身雇用制のことです。

ただご存知の通り、現代ではそうしたものへの絶対的信用(=大きな物語)は崩壊し、幸せに生きるということが定義しづらい社会になっています。

このドラマは、そんな現代においてどう生きていけばよいかという問題について、家族・仕事いう二大ファクターを引きはがされた人々の生きざまを描くことで取り組んでいたと言えるでしょう。

 

そして坂本裕二がここでその軸として選んだのが、擬似家族の形成です。

血縁・地縁的つながりのない4人が集まり、家族じゃないけど家族のようなものを作っていくことでなんとか生きていく。

「からあげにレモンをかけるかどうか」といった日常の些細な問題に丁寧に取り組みながら、ひっそりと充実した日々を送っていく、そんな様が描かれていました。

最終話も基本的には「やっぱり擬似家族しかないよね」という流れで幕を閉じます。

※ちなみにこうした「擬似家族の形成」については、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』に詳しいので、興味がある方は是非読んでみてください。

 

擬似家族における恋愛への対処はどうするのか?

ただこのドラマで一つちゃんと描かれていなかった問題が、「擬似家族内で恋愛が発生した場合はどう対処したらいいのか?」ということです。

4人の中での複雑な片思い模様も描かれているのですが、結局その恋愛感情は、「擬似家族を守るために我慢して押し殺すしかない」という扱いを受けます。

もちろんそれが「大人」であり、その悲しさこそがドラマを面白くしているのではあるでしょうが、これは重要な問題を放棄しているように感じました。

 

なぜなら、戦後日本的に考えると恋愛とは家族形成の第一歩であり、すなわちこれは「擬似家族内でほんものの家族が生じた場合どうなるのか?」という問題を放り投げているように思えるからです。

 

坂本さんにはここにもっと取り組んでほしかったなと思います。

まとめ:とはいえ坂本裕二の描く空気間と夫婦のすれ違いを一級品

とはいえ、総じて観ていて楽しいドラマでした。

 

擬似家族の形成という手法は2000年代前半からクドカンなどがよく使っている手法で物珍しいものではなかったですが、坂本の描く空気間・会話のリズム・夫婦のすれ違いはやはり一級品だなと思いました。

 

「からあげにレモンをかけるか否か」のような些細な4人の会話のリズム感はとても心地よく、『最高の離婚』を彷彿とさせました。

また第6話で描かれていた夫婦のすれ違いの模様は非常に繊細かつリアルで、これまた『最高の離婚』を思い出しました。

こうした坂本ワールドを十分に堪能できるという点だけでも、非常に優れたドラマだといえるでしょう。

巷では次の1月ドラマでまた坂本裕二作品がやるという噂ですが、そこではどんな坂本ワールドが展開されるのか、擬似家族と恋愛という難題に取り組まれるのか、非常に楽しみです。

 

今日はこんなところで。